LOGIN隠し部屋のテレビが暗転したあとも、澪の耳には男の声が残っていた。
「そこから先は、撮らせなかった」。
振り返ったとき、部屋にいたのは六人だけだった。
壁一面に貼られた盗撮写真、古いビデオテープ、灰皿、まだ生活の気配を残した細いベッド。
そのどこにも、声の主になり得る人影はない。
朔はテレビの電源コードが抜けていることをもう一度確認し、蓮司は床下へ続く逃走経路へ懐中電灯を向けたが、梯子の下にも物音はなかった。
誰かが隠し部屋のスピーカーへ音声を仕込んでいた可能性はある。
七刻女学校でも同じことは何度も起きた。
そう考えれば説明はつくはずなのに、澪は胸の奥へ落ちた冷たさを振り払えなかった。
あの声には録音特有の平板さがなく、自分の耳元で呼吸を伴って発せられたように聞こえた。
確かめようにも、部屋のどこにも新しいスピーカーは見当たらず、誰かが直前まで潜んでいた痕跡もなかった。
蓮司のスマートフォンが震え、全員が反射的にそちらを見た。
画面を確認した蓮司は「警察だ」とだけ告げ、隠し部屋の入口へ移動して通話を取る。
最初は短く相槌を打つだけだったが、数秒後、表情が変わった。
澪は返し雛が置かれた和室を振り返った。
赤い着物の人形は、澪の布団の上へ座ったまま動いていない。
「本人は無事なんですね」
蓮司の声が低くなり、続けて怪我の有無を確認した。
しばらく相手の説明を聞いたあと、「分かりました。玄関には何もなかった?」と聞き返す。
奈々香が小さく息を呑み、美月も机へ置いた資料から顔を上げた。
通話を終えるまで、誰も蓮司へ話しかけなかった。
「藤崎杏奈の安否が確認された」
「生きてる?」
「ああ。警察が自宅に入って本人と話してる。怪我もない」
澪の肩から力が抜け、奈々香も壁へ背を預けて大きく息を吐いた。
美月は目を閉じたあと、すぐに返し雛の方へ視線を戻した。
無事だったという安堵だけでは終われないことを、全員が分かっていた。
杏奈は電話が切れる直前、自宅の玄関に返し雛が現れたとはっきり言っていたからだ。
「人形は?」
「警察が着いたとき、玄関にはなかった。本人はまだ見間違いだと思ってない」
蓮司は警察から聞いた内容を整理するように続けた。
杏奈は澪との通話が切れたあと、玄関に現れた返し雛を見ないようにし、そのまま寝室へ逃げ込んだ。
扉を閉め、数分間は携帯電話を握ったまま動けず、外で何かが床を擦る音を聞いたという。
音が完全に消えてから恐る恐る寝室の扉を少しだけ開けると、人形は玄関から消えていた。
「杏奈さんのところで消えた時間は?」
「警察が聞いた限りでは、こっちで人形を透明ケースへ入れる少し前だ」
朔が腕時計を確認し、美月も常世荘と杏奈の町までの距離を思い返すように眉を寄せた。
数百キロを移動するには、どんな車を使っても時間が足りない。
同じ返し雛が杏奈の玄関から常世荘へ運ばれたと考えるのは、少なくとも通常の移動手段では成立しなかった。
奈々香は澪の布団へ座る人形を見たまま、唇を震わせた。
「じゃあ、本当に移動したってこと?」
「同じ人形が一体しかないと決まったわけじゃない」
朔の答えに奈々香が顔を向けると、彼は人形そのものではなく着物の縫い目や髪の長さを観察していた。
古い日本人形なら同じ工房で似た個体が複数作られていてもおかしくなく、誰かが杏奈の家へ別の一体を置き、常世荘にも同型を用意していた可能性は残るという。
蓮司もその考えを否定せず、証明できないことを最初から呪いで片づける気はないと告げた。
ただし杏奈の家には明らかな侵入痕がなく、合鍵や建物管理側の出入りについては警察が確認を続けている。
「でも、ケースの映像には今も人形がいる」
「それは別の問題だ。人形の移動と、映像と現実が食い違う現象を一つにまとめる必要はない。別々の仕掛けかもしれない」
澪はその言葉を聞きながら、胸元の手帳へ触れた。
澄花が残した〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文が、また指先の下で重くなる。
朔自身はいま起きている食い違いを誰より冷静に切り分けており、その姿を見れば見るほど、彼を疑う自分が間違っているようにも思えた。
それでも、楽譜を見せる決心はつかなかった。
蓮司の端末へ警察から追加の聞き取り内容が届き、彼は画面を読むうちに目を細めた。
杏奈が、十二年前に壁の中へ住んでいた男について新しい証言をしたという。
以前は恐怖で詳しく説明できず、警察にも「知らない男」としか話さなかったが、今回、常世荘の古い関係者写真を見せられて一人を指した。
蓮司がその身元を口にした瞬間、悠斗の表情が変わった。
「当時の常世荘管理人の息子だ」
「正式な従業員じゃなかった?」
「ああ。父親の管理業務を手伝う名目で出入りしていたらしい」
杏奈の証言によれば、男は管理人が持つ鍵を使い、住民がいない時間に二〇三号室へ侵入していた。
やがて空室や壁内の設備空間へ勝手に寝泊まりするようになり、食べ物を盗み、衣類を触り、覗き穴から女性入居者を盗撮した。
隠し部屋そのものが当時から今と同じ形だったかは分からないが、壁の中へ身を隠して生活できる空間があったことは杏奈の記憶とも一致している。
澪は壁一面の写真へ目を向け、そこに残る十五年以上の視線が一人だけのものなのか分からなくなった。
「その男は今どこにいるの」
蓮司の表情が僅かに硬くなり、杏奈が警察へ相談した直後から行方が分からなくなっていると答えた。
男が人形を見て壁の中へ逃げたという夜の翌日から、常世荘へ姿を見せなくなり、家族も連絡を取れなくなったという。
奈々香は返し雛を見つめたまま、自分の肩を抱いた。
杏奈が昨日語った「次の日、壁の男はいなくなりました」という言葉が、まったく別の重さを持って戻ってきた。
「その男がいなくなってから、事件は?」
「しばらく止まってる」
蓮司は古い入居者一覧を机へ広げ、杏奈が逃げた十二年前から約四年間を指した。
その期間にも二〇三号室へ女性が入居した記録はあるが、行方不明になった者も、壁の声や人形について管理側へ相談した者も確認できない。
異常が一度途切れていたことになる。
ところが八年前を境に、同じような訴えと失踪が再び始まっていた。
「八年前……」
澪の声に、全員が同じ人物を思い浮かべた。
椎名澄花が七刻女学校から生きて逃げ、常世荘二〇三号室へ来た年だった。
杏奈が見た制服姿の少女、宿泊記録に残る〈女子高生 一名 怪我あり 二〇三使用 三泊予定〉、壁の中から撮影された澄花の写真。
それらが、常世荘の異常が再開した時期と重なっている。
「一人の犯人で全部つなごうとするからおかしくなる」
蓮司は低く言い、初期の常世荘事件と現在の仕掛けを動かしている人間は別である可能性が高いと続けた。
最初の男は女性を盗撮し、壁へ潜み、部屋へ侵入していたが、その男が消えたあと事件は止まっている。
それから四年後、誰かが同じ空間と方法を再利用し始めたと考えれば、監視機器だけが比較的新しい理由も説明できる。
朔は、二代目が初期の男から直接情報を得たのか、残された部屋と記録からやり方を引き継いだのかはまだ分からないと補足した。
悠斗は無言で管理会社の内部システムを開いていた。
常世荘の管理体制が八年前に大きく変更されていることへ気づき、当時の担当者一覧を呼び出す。
所有会社が変わった時期と重なって、現場担当へ一人の新規登録が追加されていた。
ところが、その欄だけ氏名と所属が消され、従業員番号だけが残っている。
「削除されてる」
「退職したからじゃないの?」
悠斗は奈々香の問いへ首を振り、通常なら退職者も氏名ごと監査記録へ残ると説明した。
削除済みと表示される場合でも、誰がいつ削除したか履歴がつく。
それがこの一件だけ見当たらない。
澪は七刻女学校の監視室にあった〈K7_ADMIN〉を思い出し、名前のない管理者という共通点に背中が冷えた。
「社員番号で追える?」
「やってる」
悠斗は現職社員、退職者、旧関連会社まで検索範囲を広げたが、一致する人物は出なかった。
表示されている英字二文字と六桁の番号は、現在の社員番号形式とも少し違う。
朔が画面へ近づいて番号を確認し、「システム移行前の形式かもしれない」と呟いたが、旧データベースへ切り替えても同じ番号は存在しなかった。
「偽の社員番号?」
「普通は作れない」
悠斗の声から苛立ちが消え、代わりに警戒が滲んだ。
人事情報と連動する管理システムへ現場側だけで番号を追加することは難しく、少なくとも内部権限を持つ人間の協力が必要になるという。
蓮司は番号そのものより、実際に何へ使われたか調べるよう促した。
悠斗は社員名簿ではなくアクセスログへ番号を入力し、数秒後、画面に現れた結果を見て指を止めた。
「……このアカウント、死んでない」
「どういう意味?」
「八年前に登録されたまま、今も使われてる」
机を囲む六人の間へ、冷たい沈黙が落ちた。
アクセス履歴には三日前、昨日、今日の日付が並び、それぞれ常世荘二〇三号室の鍵管理情報、監視設備の点検履歴、入居状況が閲覧されている。
昨日のアクセス時刻は、澪たちが七刻女学校へ閉じ込められていた時間と重なっていた。
誰かがあの夜にも、別の場所から常世荘の情報を確認していたことになる。
「今日の最後は?」
「十分前」
奈々香が和室を振り返り、美月も時刻を確かめた。
六人が隠し部屋で澄花の映像と宿泊記録を調べていた時間だった。
二〇三号室から人が外へ出た形跡はなく、玄関と窓の監視も続いている。
もしこの部屋のどこかにログイン端末があるなら、犯人は六人のすぐ近くで操作していたことになる。
「接続元は?」
「社内ネットワークを経由してる。外部の場所は隠れてる」
悠斗は利用端末情報を開いた。
登録上は管理会社の業務端末だが、端末番号を照合すると五年前に廃棄された旧型になっている。
物理的には処分済みの機械から、存在しない社員番号を使ったアクセスが現在も続いている。
蓮司が盗難や廃棄記録の偽装を指摘すると、悠斗は会社側の記録まで調べなければ断定できないと答えた。
「存在しない社員が、捨てられた端末から今も二〇三号室を見てる」
澪が言葉にすると、現実感がさらに薄くなった。
初期の壁の男が消え、その四年後に名前のない担当者が現れ、八年間システムの中だけに残り続けている。
現在の監視装置を設置した者と同じなのか、七刻女学校を改造した人間なのかは分からない。
それでも誰かが長い時間をかけ、二つの場所を一つの線でつないでいることだけは見え始めていた。
悠斗の端末の隅へ、小さな通知が一件増えた。
利用者名は不明、項目は〈二〇三号室 室内確認〉となっており、時刻は現在だった。
悠斗が項目を開くと、本来は管理担当が室内点検後に短いメモを残すだけの欄へ、〈女性三名。男性三名。滞在継続〉という文章が一行ずつ追加された。
美月の顔から血の気が引き、蓮司は隠し部屋の覗き穴へ懐中電灯を向けたが、そこには誰もいない。
「六人って分かってる」
奈々香の声が掠れ、朔も押し入れ側と床下の出口へ視線を走らせた。
二〇二号室にも外廊下にも人影はなく、押し入れの空洞も床下の逃走経路も確認したばかりだった。
それでも画面の向こうにいる誰かは、今の二〇三号室を正確に見ている。
悠斗が入力を止めようとしたとき、同じ欄へ〈返し雛 未返却〉という文字が追加された。
澪の布団へ座る人形が、かすかに首を傾けたように見えた。
奈々香が息を止め、美月も人形から目を離さない。
朔はすぐ胸元のカメラを向けたが、液晶の中では返し雛は澪の布団ではなく、相変わらず台所の透明ケースへ座っていた。
さらに管理画面へ〈監視を継続します〉という一行が現れた瞬間、隠し部屋の古いプリンターが突然動き始めた。
電源表示の消えた機械の内部でローラーが回り、紙が一枚、ゆっくりと吐き出される。
蓮司が全員を近づけず、朔がカメラを向けたまま印刷が終わるのを待った。
出てきた写真には、六人が悠斗の端末を囲んでいる今この瞬間の姿が写っていた。
撮影位置は、六人の誰もカメラを置いていない隠し部屋の天井の隅だった。
澪たちは同時にそこを見上げたが、剥き出しの梁と古い配線しか見えない。
カメラらしいレンズも、穴もなく、写真を撮れる位置へ人間が潜める空間もなかった。
それでも印刷された画像の中では、六人のさらに後ろ、二〇三号室へ通じる壁の入口から、赤い着物の人形がこちらを覗いていた。
そして現実の和室から、畳を小さな足で踏む音が一度だけ聞こえた。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の